好きなBPMは128。

なんか青いやつの、戯言。

"自分"の評価と"自分のアウトプット"の評価は別軸。

mohikanz Advent Calendar 2019 2日目です。

adventar.org

なんですけど1日目いなかった。実質初日じゃないですかやだー。

 


 ↑ここまで12月2日に書きました。寝落ちましたごめんなさい。そしてなんだかんだで19日。許してください神よ。

 

 

今更なんですけど、3日目はnagashi_ma_wさんの

nagashi-ma-w.hatenablog.com

 

です。

 

あ、mohikanzは エンジニアが集うSlackチーム です。
技術系の情報がRSSで流れてくるmohikanってSlackチームがあるんですけど、エンジニアってチャット大好きなんでやっぱ雑談したくなり、けど雑談しまくるとSlackの制限に達して古いチャットから消えていくのでRSSが消えていって意味がない、となり、雑談チームmohikanzができました。

mohikanz.kibe.la

よくイベントみたいなのして集まって飲んだり知見共有したりと色々しています、なんだか不思議なコミュニティですよね。私も何度か行きました。最近はたまに見てたまにチャットするだけになっちゃったな、たまには行こう。

大学生時代は特に技術系の質問して平日昼間に皆様によく助けられてました…
ホームディレクトリをgit管理下にしちゃった、みたいなことあったな…万単位のgitの差分が出てどうしよう、みたいな…笑
たしかなにも知らずホームディレクトリでgit initしちゃってた…

  


 

本題。

いきなり結論書くと、タイトル通り、

”自分”の評価と”自分のアウトプット”の評価は別軸なので、
”自分のアウトプット”が褒められても"自分"は褒められてないし、
逆に批判されてもそれは"自分"は批判されていない。

ってことが言いたい。

 

 

さて、今は職業としての「エンジニア」になりました。
大学生の間も、特に3〜4年生はものづくりをしていました。
つまり、最近はずっとものづくり。 

で、ものづくり、つまり見える形として自分のアウトプットが出る行為なわけです。それは必然的に、誰かの評価に晒されます。

評価されること…と考えると、なにもものづくりだけではないですよね、自分のアウトプットって。
もはや自分の所属・所属先の価値とかの社会的地位すらも自分のアウトプットだと思っております。

こと最近のSNSにおいて、 誰かのアウトプットが世の人たちに触れる機会がかなり増えました。自分からアウトプットを出して評価に晒される場合もあれば、勝手に評価に晒される場合もありますよね。

で、特に最近は"承認欲求"に悩む人が増えたのではないかと感じます。
誰かのアウトプットを偶然見てしまう機会が急増した影響だと思うんですよね。

 

また別の話になるんですけど。

去年卒論を書いていたとき。
Twitterだったかな、流れてきてなるほどなって腑に落ちたのが、

「教授は卒論にめちゃめちゃダメ出しするし赤入れするけど、これは”あなたの卒論”にダメ出ししているのであって”あなた”にはダメ出ししていない」

というツイート。これがかなり腑に落ちて教授からのダメ出しも素直に聞けました。確かに卒論に対しては言うけどその後普通の会話では笑ってるし。別の話なんですよね。

 

 

そう、別の話なんですよ。上記のツイートは卒論に関して言ってますけど、これはあらゆることがそのはずなんですよ。アウトプットってなんか文章書くとか、ものつくって発表するとか、なんかそういうのに限定されてる感じしますけどそうじゃなくてあらゆるものがそう。

 

 

最近、"何者か"になりたすぎじゃありませんか?みんな。

その”何者か”の象徴として、様々なアウトプットが使われるなと思います。で、そのアウトプットが非難されるのは怖がるな、と。

自分の所属先や作品だって、”非難されない、むしろ褒められる自信がある”から、自分から率先して言ってるんですよね。

まあ自分もそうなんですけども。

慶應SFC卒、とか。
デザイン会社のフロントエンドエンジニア、とか。
VJ(クラブの映像演出)、とか。

 

自分も含め、自分のアウトプットを褒められた過ぎなんですよ。

プラスの評価待ち過ぎる。そこが本質ではないはず。

で、そのプラスの評価が、自分の評価になる。自己肯定感につながる。

という傾向が、最近はあまりにも強すぎるんですよ。

 

別に良いもの作ってようがそうでなかろうが、
有名な会社で働いていようがよくわかんない会社で働いていようが、
SNS上で有名であろうがそうでなかろうが、
芸能人であろうがそうでなかろうが、

全部、その軸での優劣の評価でしかない。たった1つの軸。

で、それは自分の評価とはまた別のはず。その軸での優劣は、おそらく可視化されやすいしわかりやすく結果に出てしまう。
けど、そこでの優劣はその軸での話。その軸での話でしかない。

この軸と、自己評価を同一視してしまうこと、あまりにも多すぎると思うんです。

 

 

この感覚が身についてくると、

ものづくりをした時に、そのものをよりよくするために評価に晒すことが怖くなくなると思っているのです。別にその作ったものの評価は自分とは関係ないですもん。無の気持ちで晒すべきです。
アウトプットの批評をされて、マイナスなこと言われてもそれは自分が言われてるのではなく自分のアウトプットが言われてるので素直に受け止めましょ。自分はそのままでいいんです。

で、それと反対に、所属先とかで承認欲求得て気持ちよくなることは無意味にも思えると思うのです。所属先が凄いから自分は凄いわけではない。

特定の誰かを非難したいわけではないことだけ言いたいですが、

同年代でもなんかすごい活躍して有名な会社辞めて起業しますだとかnoteで語る人とかいますけど、これはアウトプットで褒められる方向。
褒められてるけどアウトプットが褒められてるだけで本人が褒められてるわけではないはずなのです。これと自己評価を同一視するとただの承認欲求欲しがりマンになり辛いですよ。

 

 

別の話なんですよ、別の話。

アウトプットで自分に自信をつけないでいいんですよ、
なにして生きていたって、自分は自分。すごいんです。
特になにもなくても自己肯定して生きればOK。

それとは別軸で、アウトプットを判断してもらいましょう。
もちろんアウトプットの結果とかで一喜一憂くらい当然すると思うけど、それと自己評価を結びつける必要なんてないんですよ。

 

 

とか言ってるけど、その感覚を一番自分が身につけたい、そんなお話でした。

なにがあろうと自分に自身持って生きていきましょ。

f:id:XxGodmoonxX:20191219021813j:plain

ほんと関係ないけど武蔵美の芸祭で買ったネックレス。なんかかわいい。