好きなBPMは128。

なんか青いやつの、戯言。

“良い人”は常に誰かの犠牲になり人知れず死を迎えてしまうのではと思っている

ちょっとネガティブめかもしれないけどわりと人生の課題だなーと思っている。

例えばちゃんと視野広く見て誰もやろうとしない雑用に気づいたらやるよと声を上げたり実際やったりする…みたいな、適切な例になっているかちょっとわからないのだけど、仕事に限らずいろんなコミュニティで協調的に振る舞ってしまうことがある。

それはそれでそういう性格だし自分の良いところだと思うのだけど、こんな感じのある種"良い人"的な振る舞いを結構人生の課題だなーとも思っている。(そもそも自惚れているかもしれないが…)

というのも、良い人的振る舞いって結構その場しのぎなんじゃないか…と思っていて。一時の快楽を優先している可能性がある。フロー的な幸せを優先してストック的な幸せに目を向けられていない可能性がある。

フロー的な幸せとしては自分は人助けしてあげた感とかチームに貢献できた感を感じること、だと思う。
あともし相談乗ってあげたとかなら、相手も話を聞いてくれて気分が晴れたとかそういうのはあるかもしれない。

で、ストック的な幸せでいうと、どうなのだろう…と。

正直、自分はストック的な幸せとして将来的な他人からの承認を欲している部分がある。良い人的に振る舞って見返りを期待してしまう、誰かが見てくれてると期待してしまう部分が正直少なからずある。良い人として振る舞ったことを今後も覚えておいてほしい気持ちがある。

けど、まずその振る舞いはちゃんと見てくれている人がいるかが怪しい気がしている。別に他人は自分にそんなに興味がないことがほとんどだと思っていて、細々なにをしているかなんて気にとどめていない。良い人的振る舞いはわりと細かい振る舞いになることが多いと思っていて、点レベルの話であって線レベルの物事にはならない気がしている。それも相まって気づかれない、もしくは記憶に残ることではない。

あと、いま出来ることに終始してしまうことが結構多いと思う。誰もやりたがらない、誰でもいいけど…みたいなことがわりと多い気がしてる。から能力的にのびるとか良い経験になるとかもあんまりないと思う。

ので、承認欲求という話ではストック的な幸せはあまりないのではないかな、と。

大きい流れを作ったり大枠の大きい何かをやったりした人のほうが すごいし記憶に残るし称賛される。まあ考えてみたら当たり前ではある。

いまここで話していることに完全に一致している記事ではないが、以下みたいな記事があって気になっていた。

president.jp

wired.jp

良い人は収入が低い。

まあ言ってることはわかるというか、協調してやってあげたり場を譲ったりとかしてそれはそれでチャンスを逃していることに繋がっている、と解釈している。

つまるところ、「気づいてても自分が犠牲なりすぎるなら無理してやらない、やりたいを押し倒すという自我が明らかに足りてないのでは?」と思っている。
良い人って他人からの需要ありきで成り立っていると思うので結構受動的な人なんじゃないかと思っていて、だからもっと自分は主体性を持たないとだめなんじゃないかな、と。まずそもそも自分の利益について考えてすらないと思う、正直。

チームの利益のために自分の利益を妥協しすぎてはならないし、その自分の利益への妥協も気づいてもらえない可能性が非常に高い。でもそれはそうで、なんなら自分も気づけていない可能性があるのでそりゃあ他人にも気づいてもらえない。

良い人過ぎることはあまり良いことではないのではないか、と感じている。
しかもストック的な幸せがないことに勝手に病んでそれで他人に迷惑かけるのであれば良い人過ぎることはなんなら悪いことだとも言える。


でもフロー的な幸せを感じられるか否かすらもそもそも人によるのか、と思った。これ自分だから感じられるのかもしれない。
あと雑用とかの話だったら結局誰かがやらないとなくならないから、ならフロー的にでも幸せを感じられる人がやるほうが幸せな可能性はある…。

から自分は「良い人をやる」適性はかなり高いのかもしれない…

なにが言いたいかよくわからなくなってきたけど、良い人をやるのは

・やりすぎない
・無理しすぎない
・自分の利益についてちゃんと考えてちゃんと天秤にかける
・他人は自分が「良い人である、良いことをしてくれた」とか全然覚えてないので承認的見返り含め見返りは1ミリも期待しない

を忘れずにやりたい。

 

でも自分だからこそやれることでもあるとは思うから、上記を頭にいれつつ引き続き良い人をしたい。
(「良い人をしたい」宣言してる人なんてそもそも良い人ではないのかもしれないけど…笑)