好きなBPMは128。

なんか青いやつの、戯言。

生きる活力が「消費」以外に存在するか否か。バイタリティ。

最近生きる活力について考えさせられます。

生きる活力になるものが「消費」しかないという人が多いのではないか、と。

とある特定の消費を生きる目的にしていて、その消費が済んだら生きる目的がまたなくなる、という生活。

 

最近友達と旅行していたのですが、その友達の姿を見て思いました。

 

この違和感は以前も違う事で感じていました。

この違和感は、浪人生当時、大学に現役合格しストレートに大学生になった友達が「夏休み、バイトとサークルしかやることがねえ」って言ってるのを聞いたあのときの違和感に、とてもとても似ています。

 

本質は同じなのではないでしょうか。

 

で、気持ちはとってもわかるのです。

今の時代(昔もそうかもしれないけれど)相当自分を持てていないと、軸をぶらさない人じゃないと、SNSとかインターネットにやられちゃうと思うんです。

SNSやインターネットに広がっている世界では、皆キラキラしてるし、楽しそうにしている。

そんな中特にやることがなくて家でぼーっとしてると、謎の焦燥感に駆られる。

だからとりあえずそこを脱する、その一番簡単な理由が「バイト」と「サークル」なのでしょう。

で、私もそれは同じ状態でした。2年前にこんなブログを書いてました。

blog.motoki-watanabe.net

blog.motoki-watanabe.net

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迷走しまくりですね。笑

このときは大学2年生。VJ(クラブの映像演出)も始めてないし研究会(いわゆるゼミとか研究室的な)もやめてフリーだったし課外活動的なこともしていなかった。アルバイトもしていないしインターンもしていない。なにをしていいのかわからなかった。

でも前述のような違和感はあったのでいわゆるバイトとサークルに

逃げる(あえてそう表現しています、否定したいわけではない)

ことはしませんでした。

 

こんな状態だと生きる目的、ないですよね。なにかを食べるとか、どこか遊びに行くとか、それを目的に生きざるをえないでしょう。必然的に生きる活力はあんまりなかったです。

しかし、大学3年生になって、運良くVJを始められて、研究室に新たに入って毎週の進捗報告で忙しくなって、ってやってるといつのまに生きる活力は目の前に存在している状態になりました。

研究室で毎週の進捗報告があるのでやることしかないし、VJとしての次の出番もあるのでそこに向けて練習したり仕込んだり、などなど。

 

そうこうしてるうちに2年経ちました。2年前のブログを書いていたようなときの気持ちとは今は全く違うと言っていいでしょう。

今の私は正直生きる活力がある状態だな、と思います。

なぜなんでしょう。

やっぱり生産できるか否か、そして誰かに求められているか、期待されているか、とかが大事なんですかね…?

 


 

で、ここまで書いたのは3月。学生のうちに書いたことです。大学生最後の1週間のときの気持ち。

 

そして、今社会人2ヶ月目です。

 

社会人になって思うのは、消費する時間がそもそもないので仕事以外で今までどおり消費しているとそれで時間が終わるので(そもそもそこまで消費すらしきれない)

生きる活力を消費にするしかない、ということです。 

 

消費をとりあえずしたくてそこに時間を費やしていると、それで時間が終わります。

 

かといって生産的ななにかしようと頑張る気持ちは社会人生活にけっこう余裕が無いと難しいのかもしれません。言い訳でもありますが、まだ慣れていないことが私的には多すぎてあまりそこまで考えられません。

しかも(人によるとは思うけど、私はエンジニアなので)会社でやってることがある程度生産に繋がるでしょうから、そこで生産欲はある程度満たされてしまいます。

でもそれは「一個人としての生産」とはまた違うものですかね。そこの差はまだちょっと実感しきれてないですが。

 

 

今まではたくさん時間あって、消費はしまくるけどそれでも時間に余裕があって、どこか満たされないところがあって(=時間が余って)、そこでやっと生産に繋がっていたんだな、と。

 

ブログとか今となってはけっこう頑張らないと永遠に書けないんですよ。いや、そもそもけっこう頑張らないと書けなかったから、その数倍頑張らないと書けない。この文章も1ヶ月くらい放置されてました。

平日夜は疲れちゃって書く気にならなくて、土日はぐだーっとしていると終わって月曜になって、もうじゃあ次の休日で…の、繰り返し。

 

今までの私がしていた生産って、時間がたくさんあって、それを埋める手段だったのかもしれません。だからそれが「生きる活力」だった。正確に言えば、「生きる活力」とは時間を埋めてくれるものに過ぎない、という側面もあるのでしょう。

 

社会人になって、普通に1日8時間平日5日間働けば40時間が埋まります。

もうこれ以上、自分からなにか生産をして時間を埋める必要性をわざわざ感じられるかは怪しいかもしれません。

 

友達はまさにこれ以上自分から生産をして時間を埋める、なんてことは考えられなかったから、私からは特定の消費(旅行)を目標に生きていたように見えてたのかもしれません。お酒飲むとか消費の典型例ですね。

 

つまり、もう「生きる活力」の定義は大学生の私(2ヶ月前)と今の私では違ってきている気がします。

 私の今の生きる活力はなんなのか、考えさせられます。

いや、今もありますよ、生きる活力。

少なくとも今は、中学生くらいからエンジニアになろうと思っていて実際に今エンジニアになって毎日会社でコードを書いていて、幸せです。なのでそれが今は生きる活力、かな。

 

 

でもきっとそれが永遠に続く生きる活力ではないんでしょう。

これを生産と感じられなくなる時が出始めるか、

生産とは感じるけど物足りなくなるか、

会社、社会人としての生産であって一個人としての生産とは違うから、一個人としての生きる活力としては足りなくなるのか。

 

でも社会人として、会社で働いているのが少なくとも今は大前提としてあり、生産は生産で疲労は伴うので、会社で働いた時間の休息、回復の時間も肉体的、精神的共に必要なのは間違いないでしょう。

 

たぶん生きる活力は精神的回復とほぼ同義なのでしょう。

でも消費に偏ると、消費が終わると、慣れると、回復できなくなります。

生産に偏ることは、相当余裕あるということなので、おそらく起こりえないでしょう。

 

 

消費と生産、上手いバランスで生きられると、持続的に楽しく生きられるのかもしれませんね。楽しく生きたいものです。